『クラウゼヴィッツ「戦争論」を読む』--第1章 戦争とは何か??
第1章 戦争とは何か
『戦争論』の第1編は、「戦争の本質について」であり、その第1章は、「戦争とは何か」である。ここでは、『戦争論』の第1編を通じて、「戦争とは何か」を理解しよう。○ 理論上の戦争と定義
○ 現実の世界における修正
○ 戦争の更なる定義
○ 戦争理論の結論
○ 戦争における目的と手段
○ 戦争における摩擦
○ 軍事的天才
クラウゼヴィッツが唯一完全と認めた部分
『戦争論』の第1編の位置付け
『戦争論』第1編では、戦争の本質が追求される。その第1章は、『戦争論』のエッセンスが凝縮された、もっとも重要な部分である。
○『戦争論』の趣旨が凝縮された第1編
序章ですでに述べてきたとおり、『戦争論』の第1編は「戦争の本質について」であり、クラウゼヴィッツが前例のない独自の戦争理論を組み立てた、もっとも重要な編である。ここには『戦争論』のおもな命題がすべて含まれている。さらに、その第1章には「戦争とは何か」が述べられてあり、クラウゼヴィッツが『戦争論』の修正を思い立ってから書き直す途中で、みずから唯一完全であると認めた部分である。この章には『戦争論』の全体の趣旨が凝縮されている。
そのほかに、第2章では「戦争の目的と手段」、第3章では「軍事的天才」、第7章では「戦争における摩擦」など、『戦争論』を読んでいく上で欠かせない重要な命題が取り上げられている。
○戦争論が難解だった理由
『戦争論』は『孫子』とともに世界的に有名な軍事古典だが、多くの人が読みこなせなくてサジを投げた難解な書物としても有名である。その一つの理由として、当時のドイツで一世を風靡していたヘーゲルの弁証法を実践している点があげられる。つまり、抽象(観念的な絶対的戦争)と現実(現実の戦争)を対比させながら戦争の本質へ近づいていく論理構成ゆえに、文章の描写も結果として非常に難しくなった。
とくに第1編は哲学的・抽象的な命題を多く含むため、難しかったかも知れない。しかし、当時の思想・哲学の影響を受けたとはいえ、クラウゼヴィッツは独自の普遍的な戦争理論を組み立て、多くの名文・名言を残した。本書ではクラウゼヴィッツの論理構成は原典に忠実に従いながら、「生の声」をできるだけ引用し、『戦争論』をやさしく紐解いたつもりである。
まずは『戦争論』の第1編を通じて「戦争とは何か」を見ていこう。
理論上の戦争と定義?
戦争を定義する
『戦争論』では、まず個人間の決闘と比較して戦争が定義される。その定義には、戦争の目的・目標・手段の関係が明らかにされている。
○戦争の目的・目標・手段を明確にした
戦争の基本的な要素は闘いであり、戦争は個人間の決闘と比較することができる。戦争は決闘を拡大したものにほかならないからである。そこで、戦争を個々の決闘の集合体と考え、その一つの決闘を取り出して戦争とは何かを考えてみよう。決闘の場合、敵対する両者はともに暴力を行使して自分の意志を相手に強要しようとする。ここでは、敵にみずからの意志を強要することが目的であり、敵を打倒し、その後のあらゆる抵抗をまったく不可能にすることによってこの目的は達成される。いいかえれば、敵を打倒することは目的を達成するための具体的な目標であり、その手段が暴力である。
このような個人間の決闘における目的(みずからの意思を強要すること)と目標(敵を打倒すること)、手段(暴力)の関係は、決闘を拡大した戦争にも適用することができる。クラウゼヴィッツは『戦争論』の冒頭で、決闘を例に戦争の目的、目標、手段の関係を明確にし、「戦争とは相手にわが意志を強要するために行う力の行使である」と定義した。(第1編、第1章2項)
○戦争の自己目的化
戦争において具体的に達成すべき目標である敵の打倒は、戦争の本来の目的(政治目的)とは異なる。ところがいったん戦闘が開始されると、敵を打倒するという目標は交戦している両者にとって戦争の目的そのものとみなされ、戦争の自己目的化が起こることになる。このことについて、クラウゼヴィッツは、「敵を打倒するという戦争の目標が目的の代わりになり、(本来の)戦争の目的は、戦争自体に属さないものとして事実上押しのけられる」と述べ、戦争の自己目的化に警鐘を鳴らしている。『戦争論』の冒頭におけるこの重要な指摘はしばしば見落とされてきた。
理論上の戦争と定義?
暴力性命題と力の極限行使
暴力は戦争における最大の特徴であり、『戦争論』における「暴力性命題」と呼ばれる。理論上、戦争において行使される暴力に限界はない。
○戦争を規定する暴力の行使
戦争における最大の特徴は暴力の行使である。これは『戦争論』における「暴力性命題」と呼ばれる。この暴力についてクラウゼヴィッツは、「この力を容赦なく、しかも流血をいとわず行使する者は、敵がそうしない限り優勢をえるに違いない」と述べている。いいかえれば、一方が目的を達成するために暴力を行使すれば、相手も同様に暴力によって対抗せざるをえない。つまり、戦争では、お互いに暴力を行使し、しかも暴力を徹底的に行使する側が優勢を獲得するのである。
したがって、戦争に人道主義や善意の感情を持ち込むのは誤りであるとクラウゼヴィッツは指摘している。なぜなら、戦争を支配しているのは暴力であり、戦争におけるあらゆる事象は暴力を前提に成り立っているからである。
○第1の相互作用と極限:暴力の応酬
クラウゼヴィッツは三つの相互作用(お互いに影響を及ぼし合う力)のため、理論的には暴力の行使は際限なくエスカレートし、三つの極限へ向かうと指摘した。本書ではこれを「力の極限行使」と呼ぶことにする。
その第1の相互作用として、クラウゼヴィッツは「戦争は力(暴力)の行為である。その力の行使においては、どのような制限もない。交戦者のいずれもが、互いにみずからの意思の実現を相手に強要する。そこで、相互作用が生じる。この相互作用は、極限にまで達せざるをえない」と述べている。つまり、戦争においては、わが方は相手を屈服させようと暴力を行使し、相手もわが方を屈服させようと暴力を行使する。この暴力の応酬は、極限までエスカレートする。これを力の行使における第1の極限とする。(第1編、第1章3項)
理論上の戦争と定義?
絶対的戦争へ到達する力の極限行使
理念上の戦争においては、互いに相手を打倒しようとするので、暴力の行使は極限にまで達し、力が無限界に行使される「絶対的戦争」に至る。
○第2の相互作用と極限:恐怖の増幅
クラウゼヴィッツは、戦争における軍事行動の目標は「敵の無力化」であると述べている。つまり、敵の抵抗力を完全に無力化するか、少なくとも完全に無力化されるという脅威を十分に感じさせることによって、みずからの意志を敵に強要することができるのである。
その一方で、クラウゼヴィッツは、戦争とは「つねに二つの生きた力(暴力)の対決である」と述べている。つまり、少なくとも戦争に訴えようとするからには、両者は完全な無抵抗ではなく、力による対決を決意していることになる。このような関係において、クラウゼヴィッツは「わが方が敵を打倒しない限り、敵がわが方を撃破するであろうと恐れ、わが方が敵に対して与えたように、敵がわが方に掟(行動の制約)を与える」と述べている。すなわち、戦争ではお互いに打倒されはしないかと相手を恐れ、行動は相手に制約されて自主性が失われてしまう。これが第2の相互作用を生み出し、戦争における暴力の行使を第2の極限に導く。(第1編、第1章4項)
○第3の相互作用と極限:力の増大
通常、戦争においてはみずからの力を敵より優勢にするか、これができない場合にはできる限り増大させようとする。ところが、敵もまた同じようにするのでここに新たな競合が生じ、両者の努力はここでも極限まで達せざるをえない。これが、戦争における第3の相互作用であり、第3の極限を生み出す。(第1編、第1章5項)
このように、理論上における戦争は三つの相互作用によって暴力の行使は極限まで拡大し、最終的には一方の側による他方の完全な打倒に終わる「絶対的戦争」に到達する。
現実の世界における修正?
力の極限行使を妨げる要因
理論の上では戦争は常に力の極限行使に至るが、現実の世界ではさまざまな外部の影響によって力の極限行使は妨げられる。
○戦争に影響を及ぼす外部の要因
前項まで見てきた三つの相互作用と極限や、本書の序章で述べた絶対的戦争などは、あえて戦争に及ぼす外部の影響を無視することで、戦争が持っている傾向や本質を明らかにしてきた。しかし、現実の戦争は交戦国の具体的な状況やその時代特有の政治的・経済的・技術的・社会的な要因によって影響を受ける。これらは現実の戦争における力の極限行使を妨げる。
さらに現実の戦争では、敵の完全な打倒ではなく、それよりも小さな目的――例えば、領土の一部支配や外交を有利に展開するための威嚇など――が追及される。このことも暴力が極限状態まで到達することを妨げている。
○理論上の戦争の概念は現実において修正される
ここでもう一度、敵を完全に打倒する絶対的戦争が成立する条件を考えてみよう。クラウゼヴィッツは以下の三つの条件が成立する場合は、力が極限まで行使される絶対的戦争になるとしている。(第1編、第1章6項)
・戦争がまったく孤立した行為として突然に勃発し、それ以前の国家の活動と何の関係もない場合
・戦争がただ1回の決戦あるいは同時に行われる数個の決戦からなる場合
・戦後の政治的状態の見通しが戦争に影響を及ぼさない場合
しかし、これらの三つの条件は現実の世界ではすべて否定される。戦争はもっとも起こりそうもない時期と場所で突然始まるようなイメージもあるが、それは戦争における奇襲(敵の不意をつき、対応のいとまを与えない攻撃方法)の問題である。戦争はある日突然始まることはなく、それに先だって政治的な緊張が必ず存在する。次項ではもう少し詳しく、上記の三つの条件が現実の戦争においてどのように否定されるかを見てみよう。
現実の世界における修正?
力の極限行使の緩和
絶対的戦争が成立する三つの条件は現実の世界では否定される。なぜなら、現実はさまざまな要因により力の極限行使は緩和されるからである。
○戦争は孤立した行為ではない
まず、「戦争がまったく孤立した行為として突然に勃発し、それ以前の国家の活動と何の関係もない場合」という第1の条件について考えてみよう。現実には、敵対する双方の関係はある日突然悪化することはなく、それまでの国家活動と密接に関係している。したがって、戦争は過去の国家活動や国家関係と切り離されて突然に勃発することはない。
また、相手国の軍備などはある程度事前に判明しているものであり、相手の状況や行動から相手の動向の大半を判断できる。しかし、人間の判断には常にあいまいさが残っており、相手の動向を完全に把握することはできない。ところが、敵対する双方の側が不完全な判断にもとづいて決定を行うので、現実には相互作用および力の極限行使は緩和される。(第1編、第1章7項)
○戦争は1回の決戦で決着することはない
第2の条件のように、戦争がただ1回の大きな戦い(決戦)だけで決着するものであれば、決戦に対するすべての準備は当然極限にいたる傾向を持つであろう。しかし、戦争は長い期間と広大な空間における多数の戦いによって遂行されるので、ただ1回の戦いに持てる力のすべてを集中することは交戦者双方に危険がともなう。このことも力が極限へ向かい絶対的戦争に到達することのブレーキとなっている。(第1編、第1章8項)
○戦争の結果は絶対的なものではない
最後に、「戦後の政治的状態の見通しが戦争に影響を及ぼさない場合」という第3の条件においては、交戦者双方が戦後の政治的状況に配慮することにより、力の極限行使は緩和される。この戦後の政治的配慮という交戦国両者の思惑は戦争の遂行に大きな影響を及ぼす。(第1編、第1章9項)
戦争の更なる定義?
現実の戦争と確からしさ
現実の戦争では力を極限に向かわせようとする理論上の法則は適用されず、確からしさにもとづいて判断される。
○現実の戦争では確からしさの計算が働く
前項で見てきたように、現実の戦争では暴力の行使が極限まで至ることはない。むしろ力の使用の限度をいかに定めるかを判断することが重要になる。この判断は現実における確からしさ(あることが実際に起こるかどうかの可能性の度合、確率)にもとづいて行われる。
つまり、交戦する双方は概念的な存在ではなく、それぞれ現実の国家や政府であり、戦争は独自の形態をもつようになる。ここでは、交戦する双方はいずれも相手の状況や環境などから、確からしさにもとづいて敵の取りえる行動を見積もり、今後の自分たちの行動方針を定める。いいかえれば、現実の戦争は費用対効果や予想されるリスクなどの計算に左右されるのである。(第1編、第1章10項)
○政治目的は戦争に決定的な影響を与える
戦争をとりまくこのような現実の状況を考慮した場合、戦争の規模や激しさは、戦争の政治的目的によって左右されるであろう。ここで、クラウゼヴィッツは、「そこで再び政治的が表れる」として、これまで繰り延べしてきた戦争と政治目的の関係について考察を行っている。それは、「戦争においては、本来の動機としての政治的目的は、その成果についてきわめて重要な要因になる」からである。
クラウゼヴィッツがいうように、「一般に、軍事行動の目標が政治的目的に対応している場合、政治的目的が控え目になればなるほど、軍事目標は同様に控え目になる」。すなわち、戦争は、その政治的目的によって、さまざまな重要性と激しさが与えられる。そして、現実の戦争は、ある政治的な目的のために奉仕する従属的な存在として位置付けられる。(第1編、第1章11項)
戦争の更なる定義?
軍事行動が休止にいたる理由
政治目的が戦争に大きな影響を与えるとしても、軍事行動の論理からすれば、軍事行動は相手が打倒されるまで継続されるはずである。
○軍事行動が休止される理由
戦争において、交戦者双方が武装して戦闘の準備を整えている限り、双方は戦闘に駆り立てられ必然的にぶつかり合うだろう。そして、現状が有利だと考える側は、相手に回復の余裕を与えることなく、打倒するまで軍事行動を継続するだろう。しかし、現実には、軍事行動が目的を達成するまで継続されるような連続性をもつことはまれであり、軍事行動には休止の期間が含まれ、不活発なままに継続される。それはなぜであろうか。
このことについて、クラウゼヴィッツは、「交戦者のどちらか一方に、行動するために有利な時間を待とうとする意図がある場合にだけ、戦争は中断される」と述べている。例えば、甲乙の二つの国を仮定する。甲国は講和の際の取引を有利にするために、乙国の一地方を攻略しようとしている。これを攻略すれば、攻撃側である甲国の政治的目的は達成され、行動の必要性はなくなって休止の状態が生じる。この場合、乙国は講和を締結せざるをえない。その一方で、攻撃を受けた乙国は現状が不利であっても将来改善の見込みがあると考えれば、戦争の決着を先に延ばそうとする。(第1編、第1章13項)
○戦争は本来相手を打倒するまで継続される
戦争は、異なる(多くの場合正反対の)意図を持った二つの集団の対立であり、一方の利益は他方の不利になる。したがって、一方が戦争の決着を遅らせようとすれば、積極的な目的を持つ側の軍事行動は目的を達成するまで継続されることになる。つまり、戦争における軍事行動は連続的な性格を持つ。そして、(理論上)すべてが再び極限にいたる。(第1編第1章14項)
しかし、軍事行動には攻撃と防御という異なる方式があり、弱者であっても、防御によって戦争の決着を遅らせることができる。
戦争の更なる定義?
攻撃と防御
軍事行動は攻撃と防御という二つの異なる方式に分かれる。攻撃と防御は、その特性に応じて使い分けられ、戦争の目的達成に寄与する。
○防御の優位性
軍事行動は攻撃と防御という形がまったく異なる二つの方式に分かれる。『戦争論』では、防御は攻撃よりも強力な戦闘方式であり、しかもその差は一般に信じられているよりもずっと大きいと論じられている。(その理由は本書の第4章で詳しく述べる)。防御の方が強力であれば、防御側は防御によって戦闘を継続して将来の情勢の変化を待つ、あるいは敵の戦闘力が減退するのを待つという行動を取ることができる。
また、クラウゼヴィッツは攻撃と防御に関して、「利害関係の両極性※が持っている決戦の促進力が、攻撃と防御の強さの差によって消滅し、無効になることがわかる」と述べている。つまり、交戦者の一方が戦闘の決着を早めようとする意図は、もう一方が防御を選択することによって無効化される。(第1編第1章17項)
○防御の存在から軍事行動の休止の理由がわかる
その一方で、防御は、現在持っているものを守るという消極的な行動である。したがって、敵の一地方を占領するなど積極的な目的を持つ側は、防御よりも大きな損失をもたらすかもしれない攻撃をあえて選択せざるをえない。そして、攻撃を成功させるだけの優勢を保持していることが必要である。
攻撃と防御は、目的に応じて使い分けられる。また、戦争を全体として見れば、攻撃と防御は時と場所に応じて選択的に使用される。したがって、戦争における軍事行動は、一方が打倒されるまで継続されるとは限らず、休止の状態があったり、不活発に継続されることがあるが、それは、防御という方式が存在するからである。つまり、攻撃する側がその攻撃をためらったり、戦争にさまざまなかけひきの要素が介入する余地が生まれるのである。
※戦闘においては、一方の勝利が他方の勝利を消滅させるという利害関係の両極性が成立する。
戦争の更なる定義?
戦争は賭けである
戦争には、可能性、確からしさ、幸運や不運という賭けの要素がつきものである。戦争は人間の営みのうちでカードゲームにもっとも似ている。
○状況の不完全な認識
前項では、攻撃と防御の存在によって戦争に複雑さが加わり、さまざまなかけひきの介入する余地が生まれることを見た。さらに、このような傾向をもたらすもう一つの要素は、状況の不完全な認識である。
戦争における情報は不確実である。このため、将軍は敵情に関する判断を誤る。そして、軍隊は、しばしば誤って行動を起こし、また誤って停止することになる。また、「人間の本性は、敵の勢力を過少に評価するよりも過大に評価する傾向が常に大きい」と『戦争論』では分析している。このような不完全な状況の認識は、一般に軍事行動が休止にいたることに寄与し、力の極限行使の原理を緩和することになる。(第1編、第1章18項)
つまり、戦争は、力の極限行使という軍事行動の原理によってではなく、必ずしも完全とはいえない人間の判断によって遂行される。それによって、戦争にあらたな要素、すなわち賭けの要素が付け加えられる。
○戦争と賭け
軍事行動がしばしば休止されると、戦争は絶対的戦争のような形態からますます遠ざかり、確からしさの計算と推測にもとづいて行われることになる。しかし、軍事行動は合理的な判断だけに依存しているわけではない。戦争を説明するにはもう一つの要素が必要である。それは戦争における賭けの要素である。クラウゼヴィッツはこの賭けの要素について「戦争を賭けにするためには偶然性がこれに付け加えられればよく、戦争には偶然がつきものである」と述べている。(第1編、第1章19項および20項)
人間の活動において、戦争ほど偶然の占める割合が大きいできごとはない。戦争では、この偶然性のために、幸運や不運の占める地位が大きくなる。
戦争の更なる定義?
戦争における勇気の役割
賭けの要素が多分に含まれている戦争では、あいまいさや不確実性に対応するために、勇気のような精神的な力が大きな役割を果たす。
○精神的な力の役割
当然のことながら、軍事行動が行われる場は、危険に満ちている。この危険の中で活動する場合にもっとも重要な精神的な力は勇気である。
もっとも、戦争においては冷静な計算も必要だが、勇気があれば危険の中でも冷静さを保つことができ、予測できない不運な事態や軍隊の混乱は避けられるかも知れない。しかし、クラウゼヴィッツはこの勇気と冷静さについて、基本的に別のものだと見なしている。「勇気と慎重な計算(冷静さ)は一致することがありえるが、(本来は)計算は勇気とは別の精神的な能力に属する。これに対して、冒険、運を天にまかす、大胆、無鉄砲は、勇気の発現にほかならない」。実際に、戦争においては、勇気のような精神的な力が大きな役割を果たす。次に、これがなぜかを見てみよう。(第1編、第1章21項)
○人間の精神は不確実なものに引かれる
本来、人間の知性は常に明快さや確かさを求めているが、その一方で、人間の精神はしばしば不確実なものに心を引かれる。クラウゼヴィッツがいうように、人間は「(戦争理論の)貧弱な理論的必然性というものの代わりに、(大胆な行動における)無限の可能性に酔う。そして大河に飛び込む勇敢な泳ぎ手のように、精神は冒険と危険の場に身を投ずる」のである。
このように、戦争は勇気のような人間の生き生きとした精神の力に大きく関わりあっている。このため、戦争の理論は決して絶対的なものや確実なものに到達しえないとクラウゼヴィッツは結論付けている。彼は、それゆえに戦争理論は至る所にあいまいさの入り込む余地が残されており、このあいまいさは「戦争における真に本質的な原則」である勇気や自信によって埋め合わさなければならないとしている。(第1編、第1章22項)
戦争の更なる定義?
戦争は常に重大な目的のための真剣な手段である
戦争は冒険や成功を楽しむものでも、また奔放な感激をもって行われる事業でもない。戦争は重大な目的を達成するための真剣な手段である。
○戦争は政治的行為
前項でみたように、戦争は、幸運と不運のめまぐるしい変化、激情、勇気、熱狂などの特有の性質を内在している。しかし、これらは、戦争という手段のもつさまざまな特質の一部にすぎない。
それでは、戦争とは何であろうか。クラウゼヴィッツがいうように、「戦争は、常に政治的事情から発生し、政治的動機によってのみ引き起こされる」。したがって、戦争は一つの政治的行為なのである。
その一方で、戦争は、政治によって引き起こされた瞬間から、政治とはまったく関りのないものとして政治に取って代わり、政治を押しのけ、戦争に固有の法則のみに従うのではないだろうか。実際に、政治と戦争との間の明確な関係が明らかでなかったので、「これまで上記の事が正しいと人々は考えた。ところが、この考え方は根本的に誤っている」とクラウゼヴィッツは指摘している。(第1編第1章23項)
○戦争と政治の相互関係
クラウゼヴィッツは「現実の世界の戦争における力の作用は、ある時は慣性と摩擦※による抵抗を克服するために十分に増大し、ある時は何の効果も発揮しえないように弱くなる。戦争はいわば力の行使の脈動である」と述べている。つまり、戦争は常に十分長い間継続されるので、その間に目的もあちこちに変化する。戦争の目的を変化させるのは、政治の働きである。すなわち、クラウゼヴィッツがいうように、「要するに、戦争は政治という指導的な知恵の支配下に置かれている」のである。
このような考察を通じて、いよいよあらゆる条件のもとでの戦争が改めて定義される。そこで、次に、結論としての戦争の定義をみてみよう。
※ 慣性と摩擦:いずれも戦争の遂行を妨げるさまざまな要因を総称した概念である。
戦争理論の結論?
戦争は政策の継続にすぎない
戦争は本来、政策のための手段であり、政治的交渉の継続にすぎない。つまり、戦争は政治の一部分であり、政治に従属している。
○戦争は政治に従属する
序章でも述べたように、「戦争は他をもってする政策の継続にすぎない」は『戦争論』の代表的な定義である。つまり、戦争とはたんに一つの政治的行為であるばかりでなく、本来政策のための手段であり、外交などに代わる政治的交渉の継続である。この定義は、戦争は政治に従属するという、クラウゼヴィッツの考える政治と軍事の関係を端的に示している。
一方、歴史を振り返ってみれば、この定義とは反対にしばしば戦争が政治よりも優先されている。多くの場合、強硬な軍人や政治家、熱狂的な世論によって軍事的な要求を最優先すべきであると主張されてきたからである。しかしこれはまったくの誤りであり、軍事的な要求は「常に政治的意図の単なる修正として考慮されるだけである。というのは、政治的意図が目的であり、戦争はその手段すぎないからである」とクラウゼヴィッツは断定している。彼は、戦争が政治に取って代わって政治の主体となってしまうことを真っ向から否定した。(第1編、第1章24項)
○政治目的を第一に考える
前項でみたように、クラウゼヴィッツは「全国民の参加する現代の戦争は、常に政治的事情から発生し、政治的動機によってのみ引き起こされる。したがって、戦争は一つの政治的行為である」とも述べている。
さらに、戦争は長期間にわたって行われるのでその政治目的は変わることもあるが、常に政治目的を第一に考えなければならないと強調している。「そうすれば、政治は軍事行動の全般を律し、軍事行動に間断なく影響を及ぼすであろう」とクラウゼヴィッツは結論付け、政治と軍事のあるべき関係を明確に示した。
戦争理論の結論?
戦争は変化する
戦争は政策の手段である以上すべて政治的行為であり、そのため戦争も政治的状況により変化する。
○すべての戦争は政治的行為
前項では政治と戦争の関係を見てきたが、「絶対的戦争」と「現実の戦争」という二種類の戦争の概念においては、戦争と政治はどのような関係にあるのだろうか。クラウゼヴィッツは「ある種の戦争(絶対戦争)では、政治はまったく消滅したかのように見え、これに対して別の戦争(現実の戦争)では、政治がきわめて明確に前面に出ていることは真実である」と述べている。
しかし、クラウゼヴィッツはいずれの戦争も政治的であることに変わりはないとしている。政治が戦争の背後に隠れて見えなくとも、戦争が政策の継続にすぎない以上、そこにはさまざまな情勢をもとに計算した何らかの政治的判断が含まれているからである。(第1編、第1章26項)
○二つの結論
これまで見てきたような戦争と政治の関係から、クラウゼヴィッツは次の二つの結論がえられるとしている。
第一に、戦争は独立して存在するものではなく、常に政策のための手段と見なされなければならない。そして、この見解に立つ場合にのみ、膨大な戦史から道理にかなった洞察をくみ取ることができる。
第二に、戦争は政治の継続であるという見解は、戦争を発生させた動機やその時の具体的状況によって戦争はさまざまなかたちに変化するということを示している。それゆえ、政治家や将軍たちは自分たちがこれから行おうとする戦争に関してこのことをしっかりと認識する必要があり、戦争に求めることのできないものを求めたり押しつけたりするのは間違いである。
クラウゼヴィッツはこれらの結論から、戦争を正しく認識し、多様な姿をとる戦争に対し適格に判断することが重要だと述べた。(第1編、第1章27項)
戦争理論の結論?
戦争は、カメレオンのようにその姿を変える
戦争はその時の具体的状況に応じてカメレオンのように変化するが、その状況は三位一体の構成要素によってきまる。
○戦争を構成する要素の「三位一体」
前項では、戦争は政策の継続であり、戦争は動機やその時の具体的な状況に応じて姿を変化させると述べた。クラウゼヴィッツはこのことを「カメレオンさながら」と例えている。また、クラウゼヴィッツは、戦争が次にあげる三つの要素で構成されていることを指摘した。
?憎悪や敵意をともなう暴力行為
?確からしさや偶然性といった賭けの要素
?政策のための手段としての従属的性質
クラウゼヴィッツは、この三つの構成要素をそれぞれ国民、将軍とその軍隊、政府に割り当てている。つまり、?戦争においては、国民の燃えあがる激情や、戦争に対する世論の支持がなければならない。?多くの偶然をともなう確からしさの領域では、将軍とその軍隊の勇気や才能がきわめて重要である。?達成すべき政治目的に関しては、政府のみに属している。
○戦争理論の定立
これらの三つの構成要素は、まったく異なった法則に従うように見える。しかし、これらは、戦争の本質に深く根ざしており、また同時に異なった大きさを持っている。一つの傾向を考慮に入れなかったり、あるいは三つの傾向の間に勝手な関係を定めようとする理論は、たちまち現実との矛盾に陥り、それだけでもまったく役に立たないであろう。
つまり、戦争を構成する三つの要素は、一体となって機能する。これが、クラウゼヴィッツのいう三位一体論である。それゆえ、「戦争の理論では、この三つの傾向の間にいかに均衡を保つかが課題となる」のである。これは、戦争の理論の編(第8編)で取り上げられる。(第1編第1章28項)
戦争における目的と手段?
理論上は敵の撃滅
戦争は講和条約を結ぶことによって終結する。つまり、戦争の目的は講和条約の締結であり、そのための唯一の手段は敵を撃滅することである。
○敵を無力化する
第1編第2章は、「戦争における目的と手段」である。ここでは、戦争の理論の中でもっとも重要な目的と手段の関係が述べられている。
戦争の政治的目的は、自国に有利な講和条約を結ぶことによって達成される。そのためには、クラウゼヴィッツが「戦闘は政治的目的を獲得するための唯一の手段である」と述べているように、理論的には、敵を撃滅し、その後の抵抗を不可能にしなければならない。
それでは、「敵を撃滅する」とはどういうことだろうか。クラウゼヴィッツは撃滅の対象として、軍事力、国土、敵の意志の三つをあげている。つまり、敵の軍事力は、これ以上戦闘が継続できない状態にする必要があり、国土は、敵が新たな軍事力を生み出す危険性があるから占領する必要がある。
○敵の意思の屈服
しかし、上記の二つのことがともに達成されたとしても、敵の意志を屈伏させない限り、戦争は終結したとはいえない。クラウゼヴィッツがいうように、「敵の国土を完全に占領していても、敵の国土の内部で、あるいは敵の同盟国の援助によって新たに戦闘が起こりうる」からである。戦争を完全に終結させるためには、敵の政府と同盟国を講和条約に署名させるか、あるいは敵の国民を完全に屈伏させなければならない。
しかし、現実では講和条約が締結されても、戦闘がふたたび勃発することは珍しくない。クラウゼヴィッツも「いかなる戦争もそれ自体だけで完全な決定と解決をもたらすものではない」と述べているように、戦争だけでさまざまな問題が解決されることはないからである。したがって、政治は、真の問題解決、すなわち平和の回復に向けて戦争を指導しなければならない。
戦争における目的と手段?
現実の戦争における目的と手段
理論上の戦争においては、敵の撃滅が政治的な目的を達成するための唯一の手段であった。しかし、現実の戦争ではこれが適合しない。
○敵の撃滅は講和のための絶対条件ではない
実際には、講和条約の締結が、どちらか一方が無力化される前に、あるいは均衡が著しく破られる前に行われた例は無数にある。さらに、クラウゼヴィッツが言うように、「敵がきわめて強大な場合、敵の撃滅などは考えることさえ無駄な場合もある」のである。
クラウゼヴィッツが言うように、「もし戦争が純粋に概念通りのものであるなら、明らかに力の差がある国家間の戦争は馬鹿げたことであり、起こりえないであろう」。しかし、ナポレオンと徴兵制度による近代的な国民軍がヨーロッパに初めて登場したとき、旧体制の各国の軍隊は、フランス軍に圧倒された。このことを、クラウゼヴィッツは、「われわれが、このようにきわめて力の差のある国家間の戦争が実際に起こったのを見るのは、現実の戦争が本来の概念の戦争としばしば著しく異なっているからである」と説明している。つまり、フランス軍の強さがまだ理解されていなかったのである。
○ 戦闘を回避(戦争を抑止)しても目的の達成は可能である
したがって、戦争においては、不合理なことが起こりえる。また、反対に、合理的な計算の結果、講和条約の締結がもたらされることもある。
このことを、クラウゼヴィッツは、「その後の抵抗を不能にするかわりに、現実において講和の動機となりえる二つの事がある。第一は勝算のないことであり、第二は勝利のために支払う過大な代価である」と説明している。これは、核兵器の存在する現代における「抑止」の概念に通じる。
第1編第1章で見てきたように、(現実の)戦争は、多かれ少なかれ打算のもとに行われる。したがって、クラウゼヴィッツが言うように、「この確からしさの計算から講和への動機が生ずることを理解することができる」※。
※ 生き残りを賭けた戦争以外では、勝ち目のない戦争を始める者はいないことと同意である。
戦争における目的と手段?
現実における講和
現実の戦争においては敵を完全に撃滅しなくても、敵の戦争を続行する意思をくじけさせれば戦争は終結する。
○現実における講和の条件
前項で述べたような敵の撃滅は、政治的目的を達成するためには確実な手段であるが、これはみずからにも大きな犠牲を強いる高価な手段でもある。したがって、現実の戦争においては、戦争の当事者は敵の完全な撃滅をもとめたり実際に行ったりしないで、戦力を効果的に使用して自国に有利な講和条約を結ぶための態勢を整えようと努力する。いいかえれば、敵の軍隊を完膚なきまでに倒さなくても、敵が戦争の前途を悲観して講和条約を結ぶと判断するような形勢にもっていきさえすればよいのである。
クラウゼヴィッツは講和条約が締結される要因について、次のように述べている。「一般的には、講和を結ぶ要因として、すでに損耗した戦力と今後損耗するであろう戦力に対する考慮がある。戦争は盲目的な激情の行為ではなくて、その中に政治的目的が存在するので、政治的目的が持っている価値が、この目的を達成するために払う犠牲の大きさを定めなければならない。戦力の損耗が政治的目的の価値と釣り合わないほどに大きくなると、この目的は放棄され、講和を結ばざるをえない」。
○防御の有利性
自国に有利な講和条約の締結は防御という消極的な手段でさえも有効である。つまり、防御を採用した場合、敵の国力の消耗を当初の政治的目的と釣り合わないところまで増大させるように戦闘を継続させれば、敵は政治的目的を放棄せざるをえない。このような代表的な例は、フリードリヒ大王がおこなった七年戦争に見られる。七年戦争で、彼は、限られた資源をもって達成可能な目的のみを追求し、みずから欲するものだけ、すなわちシレジアを奪取し、領有することのみを追及したのである(第6章を参照)。
戦争の最高法則
武力による決定
戦闘は政治目的を獲得するための唯一の手段である。戦争においては武力による決定がすべての前提である。
○戦闘は唯一の手段
戦争において政治的目的を達成する具体的な手段はいくつかある。それは?敵の戦闘力の撃滅、?敵の一地方の占領、?敵の領土の一時的な占領、?敵の領土の一時的な侵略、?敵の同盟の弱体化や離反などの手段であり、状況に応じていずれかが選択され、敵の意志を屈服させるために使用される。そしてこの中で?を除くすべての手段には、規模の違いはともかく、それぞれ「戦闘」の要素を含んでいる。
このため、やや極端な表現ではあるが、クラウゼヴィッツは戦争において「戦闘は政治的目的を獲得するための唯一の手段である」と定義している。また、彼は上記のいずれの具体的な手段をとった場合でも、戦闘には「根底に撃滅は必死であるという前提がある」ため、実際に戦闘が起きなくても目的は達成できる※と述べている。このように、クラウゼヴィッツは戦闘を戦争の重要な要素と見なした。
○武力による決定
さらに、クラウゼヴィッツは「すべて戦闘に関わることは、一つの最高の法則、すなわち武力による決定のもとにある」と述べている。つまり、戦争においてはすべてが武力による決定、つまり戦闘を前提としている。したがって、実際に敵が武力による決定に訴える場合には、こちらはこれを拒否できないのである。
いいかえれば、戦争は「危機の流血による解決」である。これを無視すれば、みずからが敵に撃破される危険を招くことになる。クラウゼヴィッツはこのような戦争に関する冷厳な事実を見つめ、現実とはなはだしい矛盾に陥らないように何度も意識しなければならないと指摘した。
予測不可能な障害
摩擦
現実の戦争では予測不可能な障害が発生し、軍隊は予定通り行動できない。クラウゼヴィッツはこれを「摩擦」という概念にまとめた。
○摩擦とは
そもそも戦争においては、計画したことがそのまま実行に移されることはまれである。計画の際には考えもしなかったような、無数の小さな障害が発生して実行を妨害する。例えば天候による障害として、「霧は敵を発見して適時に砲を発射することや、報告がすぐに指揮官に届くことを妨害する。雨が降れば、ある大隊は所定の時刻までに到着できない」とクラウゼヴィッツは例をあげている。
このような現実の戦争における予期できない数々の障害に着目し、彼は「摩擦」という独自の概念を生み出した。摩擦とは、戦場での不確実な情報、過失、偶発事件、予測不能な事柄が積み重なり、それらが指揮官の決定や部隊の士気・行動に及ぼす影響を意味している。
○机上の戦争との相違
また、クラウゼヴィッツはこの摩擦の概念は、「現実の戦争と机上の戦争との相違にかなり適合する唯一の概念である」と述べている。つまり机上の戦争においては、号令一下で軍隊は規律よく行動して与えられた命令を達成するだろう。しかし実際は、軍隊は大勢の人間の集まりであり個人のそれぞれが予期しない障害にさらされているため、計画どおりに進まない。これが机上と現実の戦争の間にある摩擦という相違点であり、クラウゼヴィッツがいうには、この摩擦の恐ろしさは機械の摩擦と違って二、三箇所でおこるようなものではない。摩擦は至るところで偶然とぶつかって、まったく予期しない現象を発生させるのである。
それでは、このような摩擦に対してどのように対処すればよいのだろうか。次項では、摩擦を克服する「天才」の概念について見てみよう。
摩擦に対応する天才の概念
軍事的天才
クラウゼヴィッツは摩擦を克服するために天才という概念を用いた。天才とは予測できない困難や障害に対処する知性や意思の強さである。
○摩擦を克服する力
摩擦はさまざまなかたちをとって常に現れ、戦争を支配しかねない。しかし、少なくともある程度までは、知性と強い精神力によって摩擦を克服でき、さらには偶然を活用して予想していなかった事態を味方の利益に変えることができる。
つまり、戦争をとりまく環境、すなわち危険、肉体的労苦、不確実性や偶然の中で、確実で効果的な軍事行動を行うためには、確固とした意思と知性の大きな力が必要であるとクラウゼヴィッツは述べている。摩擦を克服するのは、将軍の実行力、強固な意志、機転といった資質である(『戦争論』では「精神的な力」として第3編に詳しく分析されている。本書では第3章を参照)。また、摩擦を完全に知りつくすことは不可能だとしても、将軍が戦場ではさまざまな予期しない障害があることを認識し、経験と機転によってそれらをできるだけ克服することはきわめて重要である。
○天才の概念
このような摩擦を克服する力を、クラウゼヴィッツは天才という概念に集約させた。クラウゼヴィッツは「軍事的天才とは、精神力の調和ある統一体である」と述べている。つまり、彼は、偉大な人物の精神的な素質、すなわち「天才」によって、戦争において必要な能力を説明したのである。そして、その中には、このような能力が特別な人間にではなく、すべての人間の情意や行動においても見られるという意味が含まれている。
クラウゼヴィッツがいうように、「軍事行動が繰り広げられる場の4分の3は多かれ少なかれ不確実性という霧の中に包まれている」。このような中で適確な判断を行うためには、第一に聡明で鋭敏な知力が要求される。